
こんにちは。
今回は、ジャズサックス奏者の原信夫さんについて取り上げます!
日本のジャズ・ビッグバンドの創始者として知られる原信夫さんですが、どんな方だったのでしょうか。
この記事では、原信夫さんの経歴・家族などプロフィール、また息子の原とも也さんについてもみていきます。
・原信夫さんの経歴プロフィール
・家族や、息子さんは?原とも也さん
原信夫(ジャズ奏者)の経歴や家族などプロフィール!息子は原とも也?
まずは、簡単に原信夫さんについてのwikiプロフィールや経歴を見ていきます!
原信夫(ジャズ奏者)の経歴wiki
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名前:原信夫
本名:塚原信夫(つかはらのぶお )
生年月日:1926年11月19日
出身:富山県
職業:テナー・サックス奏者
活動期間:1950〜
原信夫さんは、1943年に、大日本帝國海軍軍楽隊に入団し、横浜海兵団に配属され、終戦まで海軍軍楽隊で過ごしました。
終戦後は富山へ帰郷したが、音楽が忘れられず上京し、東宝交響楽団の入団試験を受けます。
しかし軍楽隊時代の先輩から「ジャズをやろう」と誘われ、ジャズマンへの道を進むことを決意し、ジャズに進みました。
その後、バンド「ムーンライト」のリーダーを務めるなどの経験を積みます。江利チエミさんや美空ひばりさんとも多数の共演があります。
代表曲としては以下があります。
『真赤な太陽』
『むらさきの夜明け』
『古都』
また、受賞歴も素晴らしく、以下のような経歴があります。
南里文雄賞 (1982年)
芸術祭優秀賞(1983年)
紫綬褒章(1988年)
勲四等旭日小綬章(1998年)
第38回日本レコード大賞功労賞(1996年)
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%A4%AB
原信夫さんの家族は?息子さんは原とも也?
原信夫さんは結婚されていて、息子さんがいらっしゃいます。
奥さんの情報は全くネット上に出ておらず、また、娘さんの情報もあまりありません。
ご長男は原とも也さんという方で、原信夫さんと同じように音楽をされています。
年齢は63歳で、中学時代にサンタナを聴いてロックギターを始めました。
高校在学中に中牟礼貞則、潮崎郁男の両氏に師事、ジャズギターを学び、その後NY大学教育学部(カナダ・ハンバーカレッジ)で学びます。
帰国後は原信夫さんのシャープス&フラッツに所属し、9年も在団していました。
他にも息子さんがいらっしゃって、原ゆうまさんという方です。
原ゆうまさんも音楽をされていて、都内でギタリストとして活動されています。
ネットの声
50歳代以下の若い方々は馴染みがないとは思いますが原信夫さんと言えばビックバンドつまり歌番組などでのオーケストラ指揮者、編曲者で一世を風靡活躍された方です。今は歌番組もカラオケばかりで生演奏もなくなりフルバンドもない寂しい歌番組になりました。ご冥福をお祈りいたします。
40年近く前の高校のとき、課外学習だとかで公会堂でビッグバンドを聴くことになりました。
偏差値低い高校だったので「なんだよめんどくせえな」と皆うざがってました。
登場したのが原信夫とシャープ&フラッツ。
演奏始まったら圧倒的な迫力にみんな釘付け。
当時ヒットしていたフランク・スタローンのファー・フロム・オーバーまで演奏してくれて、嫌がっていた生徒は帰りにはご満悦でした。
≫作曲を担当した美空さんの「真赤な太陽」(67年)は140万枚を売り上げる大ヒットとなった。
この曲は明るい曲調に美空さんのずば抜けた歌唱力が絶妙にマッチした、本当の名曲で原さんの一番の代表曲になったのだと思われます。
原さんのご冥福をお祈りします。
小林亜星さん、そしてギターの寺内さんがお亡くなりになり、今度は原さんとは…。日本音楽の神様みたいな存在がどんどん天へ召されていくのはなんとも寂しいが、作品は永遠に残る。親しみやすい曲をたくさん残した亜星さん、日本のギターテクニックを世界レベルにまで押し上げた寺内さん、スタイリッシュにビッグバンドを操り日本のジャズ界を盛り上げ続けた原さん。音楽好きな若い方々にもぜひ、触れてほしい作品や演奏である。
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